学校の歌ができるまで(管理者養成学校校歌)

管理者養成学校 校歌
・詞 財部一朗
・曲 元橋康男

学校は昭和54年4月1日、管理職を対象とする夜間通学制で、東京の代々木駅前のビルの一室でスタートした。
カリキュラムは週2回、半年間の通学で修了となる。……ところが、ユーザーから半年は長すぎるので集中して合宿でやって欲しいという要望があった。

そこで6月15日頃、第1回13日間合宿訓練が千葉県館山市でスタートした。
通学制はスタート後、2年余で廃止され、……名称・『極限の訓練』の合宿制が学校研修の主流となった。なお名称は54年10月頃、『地獄の訓練』に改称した。

昭和55年1月、合宿地が館山市の小旅館から、静岡県富士宮市にある大型研修センター(現青木分校)に移された。そのころ校旗の制作が進み、やがて校歌が欲しいという声が強まった。

校歌には財部一朗に腹案があった。昭和46年頃のカセット教材のバックグラウンド・ミュージックの中に、元橋康男作曲になる印象的な曲があった。彼はこの曲に詩を書き、校歌としたいと考え周囲の同意を得た。こうして財部は作詞に着手する・・・。

校歌は、組織のリーダーを養成する学校を象徴する主張がなくてはならない。すなわち、訓練生はどのような資質の持ち主なのか。能力に恵まれ、選ばれた人 たちなのか。その人たちは人里離れた山の中の学校で、13日間をどのように過ごし、やがてどのような存在に成長していくのか……。
財部はリーダーとは選ばれた者でなく、単に志を持つ者とする。その人々のあるべき姿は

  • ・耐えることができ
  • ・犠牲になることをいとわない
  • ・力弱きことを隠さない

そういう資質を持つ人が時間をかけて本物のリーダーに育っていく・・・。
55年3月、財部は詩を完成した。意が余り、元橋のBGMのあの曲には、この歌詞は長すぎた。そこで財部は、詩の後半に曲をつけ足して欲しいと作曲を担当する元橋に頼んだ。ところが・・・。

(以上、筆:財部)

作詞の財部から出来たての校歌の詞を受けとった作曲担当の元橋は、何度も何度も読みながら、財部のイメージであるBGM(昭和四十六年頃のテープ教材 バックグラウンドミュージック・元橋康男作曲による)のメロディにこの詞を合わせたり、曲の足らない後半部分の補作を考えたりしていたが、どうも自分なり にしっくりしない。
この詞から受ける「気品と重厚な大きさ」が、読めば読むほど、別の新たな楽想が沸き出し、例のBGMを無視して夢中で作曲にとりかかっ ていた・・・。

途中、何度か作詞者の意とするBGMが気になったが、この詞には、この曲しかない・・・、と思い込み、作曲は進み出来上がった。作曲中、何度か気持が高まり、興奮しながら口ずさんだ。満足のいくものであった。

しかし、作詞者の財部は何と云うか…、あのBGMは…、不安な気持で青竹庵(東京都日野市にあった研究室)に向かった。出来たての校歌を初めて財部以下 スタッフの前で歌い、聞いてもらった。
財部から「いいよ・・・、とても良い!」と云ってもらい、さらに、あのBGMのメロディは式典歌として別に詞を書こうと云ってくれた。とても嬉しく、本当にホッとしたものだった。

いよいよスタジオで校歌の録音が行なわれた。歌手の三鷹淳は、「録音中、曲の盛り上がりと共に身体が震え興奮した」と云われ、作曲者である元橋はオーケ ストラを自ら指揮しながら、スケールの大きさと重厚さに何度も目頭が熱くなり、感動的な思いの中、校歌はこうして完成した。

初めに詩があって曲を付ける場合、私の曲作りは作詞者の詩の世界を、できるだけ細部にわたりイメージする。自分が納得し、作詞者を納得させる曲が出来るか、確信を得てスタートする。

  • “春いまなお遠く 風すさぶるところ”

曲の出だしで、曲全体の雰囲気が決まる。詩を読み込み、イメージし、曲を書き始める。いくつかメロディが浮いてくる。このメロディはどうか、あのメロディは…、どれも捨てがたく、悩みが始まる。

  • “冷たき冬の水 この身をしづめ”

詩が進む。言葉とのイントネーション、詩と曲がかもし出す感じ…などにより、言葉の流れに合わない旋律は、良くても消去していく。できた曲を、先の曲に繋げてメロディを続けてみる。うまく流れることを願って・・・。繋がりが悪ければ捨て、新たなイメージに切り換える。

イメージの中には、学校の訓練に参加する人達がいる。厳しい環境の中で自らをさらけ出し、ひたすら耐え、励む訓練生・・・。彼らの心境が、校歌の出だしで決まるんだ!
詩にプレッシャーを感じながらの戦いだった。重々しく、静かにおさえて、おさえて…。音の高低差を大きくするなよ。自分に言い聞かせながら書き進み、格調あるメロディが姿を現わしてきた。

  • “力なき者らが スクラム組んで”

この部分から、心に秘めていたものが表にでていく様に、少しずつ盛り上がる。 “君よその名を上げよ・・・” をクライマックスに、湧き上がる闘志が自然に噴出し、気分が高揚する様に曲の構成を考え、作曲した。

学校では朝礼時に国旗、校旗が掲揚され、この時校歌が歌われる。
校歌がいつ完成し、いつから歌われたか、判然としない。多分、開校一周年の昭和55年4月から(現・青木分校が本校)の一年間の「ある日」だったと思う。
昭和63年、アメリカロスアンゼルスでのアメリカ校開校の時、まっ青なアメリカの空に校旗がスルスル上がり、校歌を歌った時は初めから最後まで涙が止まらず、あの感動は今も忘れられない。
学校で、校歌は今日も力強く歌い継がれている。校歌は、いくつかの企業の朝礼で歌われている。まさに…、歌は生きている。

(以上、筆:元橋)